魚の骨
 
 

道具としての桃井望 作者 いとうさん
http://poenique.jp/




死んだらしいので
ビデオを借りにいった
全部貸し出し中
考えることは皆同じ
本当は
堤さやかが好みです

24歳のセーラー服
死んで歳がばれる
36歳になったばかりの男にばれる
ばれたっていい
まだ若い
21歳だって24歳だって
どっちも若いに決まっている

記録映画だよね
全部あなたの記録映画
車内で焼死したあなたの記録
心中か事故か事件かまだわからないあなたの記録を
皆が借りてる
皆が観てる
おそらくは
記録ではなく道具として
排泄のための道具として
ビデオレンタルにあるすべてのあなたの記録を
観ているので仕方なく
堤さやかを借りました

 
 

魚の骨 ごちそうさまでした
 
 


ひあみ珠子
http://members.jcom.home.ne.jp/pearls/
道具としての桃井望
 
なるほどです。
確かに、何かビデオを借りようかなと思ってふらりと出掛けても、あれも見てみたいし、それだったらこれの方が見てみたい気もするし。「道具として」のビデオじゃなくてもね。
何かのきっかけで、例えば、

> 死んだらしいので

そう、亡くなった直後にヒットするっていうのもよくありますものね。
特に「道具として」のビデオの場合なんかは、そういう言い訳が成り立つわけで、別に店員さんに何か聞かれたりするわけじゃないけれど、ちょっと借りやすくなったりするのでしょう。
本当は、
> 記録ではなく道具として
> 排泄のための道具として
であるのに。
ちょっと、その心理がかわいいな、と思ったりしました。
勝手な解釈ではありますが…。
もしくは、言い訳したいばかりでなく、やっぱり興味をそそられたり、感傷にふけったりしたい方もいらっしゃるかもしれません。

そして、結局、

> 観ているので仕方なく

「道具としての」

> 堤さやかを借りました

ということになり、まあ、どっちでもよかったのでしょう。
なんだか、哀しいようなかわいいようなばかばかしいような、という感じを受けて面白かったです。

 


汐見ハル
http://www3.to/moonshine-world
「道具としての桃井望」感想
 
死んだ人間のビデオを借りに行くという行為もまた、「道具」としてそれを観るってことなんだろうなって、思います。
他人事の死を媒介として、死に触れにゆく行為。
生者ならではの、健全な傲慢さ。

結局、死の重みを受け止めることなく、
「仕方なく/堤さやかを借りました」
と終わるこの詩は、AVなんて知らない私にも、
よくわかる、
という気にさせられます。

死をまじめに重く受け止めるなんてことがないのが、日常です。
次に死ぬのは自分だなんてふつう考えない。
死に触れようとしても、実はそれがどうでもよくて、触らないまま過ぎていってしまう、この日常感覚。
私が男だったら・・・この詩にでてくる行動をなぞってしまいそう。

で、生者がそんなだから、死がやりきれない気もします。
自分のその日が来るまでは、究極的には他人事の死。

 


佐々宝砂
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sasah/
教養としての桃井望
 
堤さやかのビデオなら見たことがあるが桃井望のビデオを見たことはないと気づいたので、ビデオ屋に出かけた。なのに何故か大昔の二流ホラーを借りて帰ってきてしまった。小一時間血みどろ爆笑ホラーに没頭したあと、何か面白い番組はないだろうかとCS番組表をチェックしていて、ビデオを借りに行った当初の目的を思い出した。必要なのは桃井望だったあ。

桃井望のなんたるかは知っている。桃井望の顔も思い浮かぶ。桃井望がどんな状況で亡くなったかも判る。でも未だ桃井望のおっぱいを見たことがなく、それがいかにも口惜しいのであった。ある種の男ならAV女優のおっぱいに詳しいかもしれないが、フツーの女はAV女優の名前さえそうそうは知らない。だとしたら、桃井望は、死んでスポーツ新聞のネタになって、はじめて世間一般に知れたと言えるんじゃないか。そういうひとの名を、いとうさんが詩に使う。桃井望を知っていたひとも、知らなかったひとも、へええと思ってやや驚く。こんなものも詩になるんだなあと思う。それで終わりにしてもよいのだが、ふと気づく。私たちは、桃井望のことを何一つ知らない、と。

そういう訳で、〆切を自分で設定しているデタラメなこのヒヒョー屋は、〆切無視してビデオ屋に走り、桃井望のビデオを借りようとする。たかぼさんの「レイモン」を読んでラディゲの『肉体の悪魔』を読まなくちゃと思って本屋に走る、その心理と同じである。桃井望が亡くなったばかりのころ、桃井望のビデオに群がった連中は、確かに「道具としての桃井望」を求めたのだろうが、〆切過ぎたヒヒョー屋が求めた桃井望は、「道具としての桃井望」ではなく、いわば「教養としての桃井望」なのだった。


個人的に、AV女優の不審死を詩に書こうする根性は大好きだ。その不審死そのものではなく、微妙なところをすくいあげようとした視点も大好きだ。だけどどうしても山田せばすちゃん以上のヒヒョーは書けそうにないからこんなこと書いてお茶を濁す。すみません。

 



 
 
 
 

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(グラフィック製作 芳賀 梨花子/ページ製作 佐々 宝砂)