正字正かな質問箱 (名賀月版)
正字正かな質問箱@みんなのかなづかひの設問に名賀月が答へてみたもの。
言葉の意味に関する質問
「仮名遣」とは?
旺文社國語辭典(第八版)には、かなを用ゐて國語を書き表すときの、かなの使ひ分け。また、そのきまり。
とある(假名遣は名賀月が直した)。
言葉を假名で書くときに、どの假名を用ゐて書くかといふ決まりのこと。歐洲の言語でいふところの綴り(spelling)と同樣のものである。
歴史的仮名遣って、たとえば「イ」の音を適当に「ひ」「ゐ」の仮名に全部直して書くんでしょ? そんなの意味があるの?
決して適當/好い加減/好き勝手に直すわけではない。言葉ごとにどの假名を使ふべきなのかは決まつてをり、その決まりこそが(歷史的)假名遣と呼ばれてゐる。
「歴史的仮名遣」「旧仮名遣」「正仮名遣」は同じもの?
大體一緒と思つておけば良いと思ふ。俺は細かに區別してゐない。
「旧字」「正字」は同じもの?
戰後日本の漢字制限に伴ふ字體改變前の字體といふ意味で用ゐるのであれば同義。
字書における正字俗字の辨別と上述の改變前の字體は、合致してゐることも多いが、「留」(畱の俗字とされる)のやうな例もある。
「歴史的仮名遣」と「古文」「文語体」は同じもの?
全然違ふ。
- 歴史的假名遣
- 假名遣の規則、表記の規則のこと。
- 古文
- 昔に書かれた文章のこと。
- 文語體
- 文語を用ゐる文體のこと。
「正字」「正仮名遣」とは、それ以外の書き方を「誤字」「誤仮名遣」とみなす呼び方なのですか。
漢字については先述のとほり、傳統的には「正字」でない字は「俗字」などと呼ばれてゐた。誤りといふわけではない。
假名遣について述べると、「現代仮名遣」はそもそも假名遣ではない。假名遣とは上述のとほり、假名の使ひ分けの決まりのことだが、「現代仮名遣」は發音どほりに言葉を記すことを原則としてゐて、假名の使ひ分けを排除しようとするものである。例外的な決まりとして、假名の使ひ分けについての規則を含んでゐるからといつて、「現代仮名遣」を假名遣の一種であると看做すべきではない。
言葉に「正しい」も「正しくない」もない。旧字旧かなを「正字正かな」と呼ぶのは「正しい」の押し付けでは。
さういふことを言ふ人は大抵、本人に自覺があるのかどうか知らんけど、「常用漢字表」「現代仮名遣」を押し附けようとしてゐるわけで、「お前もな」案件であると思慮する。
康熙字典は漢字の字体の字典ではないし、楷書の字体とも異なるのに、康熙字典体が唯一正しい字体であるかのように扱うのはおかしいのでは。
名賀月としては、印刷字體においては『康煕字典』を大いに參考にすべきとは思つてゐるが、あらゆる場面で絶對の基準になるものであるとは思つてゐないので、「さうですね」としか言へぬ。
「じめん(地面)」の「じ」は「ち(地)」が濁ったものではなく、元々「じ」の音があったので、「じ」で書くべきなのでは(「治」も同様)。
そもそも昔は「ジ」と「ヂ」が別々の音であつたから、別々に書いてゐる。地や治の「ヂ」の音は、確かに「チ」が濁つて出來たものではないが、「ジ」であつたわけでもない。前後關係を言ふなら、寧ろ呉音の「ヂ」が、漢音導入時には清音化して「チ」になつてゐた、といふべきらしいのだが、この變化は日本語の範疇ではなく漢語の範疇に屬するので割愛する。そもそも他人樣に何か説くほど理解してゐるのかどうか、我ながらどうにも怪しいし。
呉音と漢音での清濁の入れ替はりの類型は次のとほりであると思しい。無論、例外は有り得る。
- 呉音ガ行 漢音カ行
- 呉音ザ行 漢音サ行
- 呉音ダ行 漢音タ行
- 呉音ナ行 漢音ザ行
- 呉音ナ行 漢音ダ行
- 呉音バ行 漢音ハ行
- 呉音マ行 漢音バ行
具體的な例を考へてみても、呉音と漢音の間で、「ジ」と「シ」が入れ替はつたり「チ」と「ヂ」が入れ替はつたりする例はそこそこあるやうに思ふが、「ヂ」が「シ」と入れ替はつたり「ジ」が「チ」が入れ替はつたりする例はパッとは思ひ附かず。そもそも存在するのかしら。清音濁音がそこそこ整然と對應してゐるのだとすれば、そこを積極的にぶち壞しにするのつて拙くないか。
といふことで、常用漢字で四つ假名の絡むものを竝べてみたものが以下である。漏れがあるかもしれないし寫し間違ひがあるかもしれないが、人間が片手間にやつたことなので惡しからず御諒承の程を。御覽のとほり、ナ行とザ行、ダ行の交替は見えるが、サ行とダ行、タ行とザ行の交替は見えない。なほ、以下に示す字音は、藤堂明保、加納喜光『学研新漢和大辞典』に據る。
- 呉音ジ 漢音シ
- 示 字 寺 自 似 事 侍 時 慈 辭
- 呉音シ 漢音シ 慣用音ジ
- 次 滋 璽
- 呉音ジャ 漢音シャ
- 邪 蛇
- 慣用音ジツ 呉音ジチ 漢音シツ
- 實
- 呉音ジフ 漢音シフ
- 十
- 慣用音ジフ 呉音シフ 漢音シフ
- 汁
- 慣用音ジフ 呉音シフ 漢音ソフ
- 澀
- 呉音ジャウ 漢音サウ
- 狀
- 呉音ジャウ 漢音シャウ
- 上 常
- 呉音ジャウ 漢音セイ
- 城 淨 情 靜
- 呉音ジャク 漢音セキ
- 寂
- 呉音ジュ 漢音シウ
- 壽 授
- 慣用音ジュ 呉音ス 漢音シウ
- 需
- 慣用音ジュ 呉音ズ 漢音シウ
- 受
- 慣用音ジュ 呉音シュ 漢音シウ
- 呪 獸
- 呉音ジュ 漢音シュ
- 樹
- 慣用音ジュウ 呉音シュ 漢音シュウ
- 充 銃 縱
- 呉音ジュウ、ジュ 漢音ショウ
- 從
- 呉音ジュク 漢音シュク
- 塾 熟
- 呉音ジュツ 漢音シュツ
- 述
- 呉音ジュン 漢音シュン
- 旬 巡 盾 殉 純 順
- 慣用音ジュン 呉音シュン 漢音シュン
- 准 準 遵
- 呉音ジョ 漢音ショ
- 序
- 呉音ジョ 漢音ソ
- 助 敍 徐
- 呉音ジョウ 漢音ショウ
- 乘 剩 繩
- 慣用音ジョウ 呉音ショウ 漢音ショウ
- 蒸
- 呉音ジン 漢音シン
- 神 盡
- 慣用音ジン 呉音シン 漢音シン
- 迅
- 呉音ズイ 漢音スイ
- 隨
- 慣用音ズイ 呉音スイ 漢音スイ
- 髓
- 呉音ヂ 漢音チ
- 治 持 地
- 呉音ヂキ 漢音チョク
- 直
- 呉音ヂク 漢音チク
- 軸
- 呉音ヂャウ 漢音チャウ
- 丈 場
- 呉音ヂャウ 漢音テイ
- 錠
- 呉音ヂャク 漢音チャク
- 著
- 呉音ヂウ 漢音チョウ
- 重
- 呉音ヂュウ 漢音チュウ
- 住
- 呉音ヂョ 漢音チョ
- 除
- 呉音ヅ 漢音ト
- 圖
- 呉音デウ 漢音テウ
- 條
- 呉音デフ 漢音テフ
- 疊
- 呉音ニ 漢音ジ
- 兒 耳
- 呉音ニチ 漢音ジツ
- 日
- 呉音ニャウ 漢音ジャウ
- 壤 讓
- 呉音ニャウ 漢音ヂャウ
- 孃 釀
- 呉音ニャク 漢音ジャク
- 若 弱
- 呉音ニウ 漢音ジウ
- 柔
- 呉音ニュウ 漢音ジュ
- 儒
- 呉音ニョ 漢音ジョ
- 如
- 呉音ニョ 漢音ヂョ
- 女
- 呉音ニュウ 漢音ジョウ
- 冗
- 呉音ニン 漢音ジュン
- 潤
- 呉音ニン 漢音ジン
- 人 刃 仁
国語改革の歴史に関する質問
「歴史的仮名遣」が時代と共に変化したのが「現代かなづかい」では。
違ふ。そもそも上述したやうに「現代仮名遣」は假名遣に非ず。
「現代仮名遣」なるものは、現代の發音のとほりに假名で書くことを原則に据ゑつつ、(歷史的)假名遣とあまりに變はつてしまつては國民一般の拒絶反應が強からう、と、一部分について(歷史的)假名遣の書き方を剽窃し、表面を糊塗した、假名遣もどきに過ぎない。
旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になったのだから、最終的にほとんどの作家が国語改革に同意したことになるのでは。
ならない。といふか全體的に何が言ひたいのか分かるやうで分からぬ。
「最終的にほとんどの作家が国語改革に同意する」ならば「旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になる」、といふ假説を主張してゐるのならまだ分かる。假にさうならさうなるかもなあ、くらゐの感觸は俺にだつてある。
「旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になった」といふことは認めてやつても良い。
一々言葉で書くのは面倒なので記號を導入しよう。「最終的にほとんどの作家が国語改革に同意する」といふ命題をP、「旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になる」といふ命題をQとする。さうすると、「最終的にほとんどの作家が国語改革に同意する」ならば「旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になる」、といふ命題は「PならばQ」と記述できる。
先に述べたとほり、「PならばQ」であること、Qであることは認めても良い。すると、「PならばQ」は眞、Qは眞、と考へることになる。
ぢやあこのときPはどうなの、と言ふと、眞なのか僞なのかは今までの前提からはさつぱり分からない。Pが眞であらうが僞であらうが、Qが眞なら「PならばQ」は眞なのである。
故に幾ら「旧字旧かなの本が無くなっていき、ほとんどが新字新かなの本になった」ことを念押ししたところで、「最終的にほとんどの作家が国語改革に同意した」と言ひ張ることは出來ない。
であるにも拘はらず、設問では、「PならばQ」を暗默的な前提に置いた上で(さういふ前提があるとでも考へなければ、それこそ意味が分かりやしない)、Qは眞なのだから、Pつてことになるのでは?と主張してゐるわけである。單なる問題提起であるとするなら、「それは調べてみないと何とも言へない」としか答へられず、Pが眞であると主張したいのであれば、眞僞不明であると反駁する外なし。
jawp:後件肯定も參照のこと。
蛇足を加へるなら、假に「最終的にほとんどの作家が国語改革に同意した」が眞であるとしても、そこから最終的にどういふことを主張したいのか、さつぱり意味不明な氣がする。忖度しろ、つてことなのだらうが、忖度してやる義理など無いので、言ひたいことははつきり言うて貰はんと、こちらとしても「はあ、だから?」と首を傾げることしかできぬ。
旧字旧かなは「軍国主義的な政府による押し付け」で、新字新かなは「私たちの民主的な国語」なのでは。
隨分と香ばしい物言ひだが、そんな噓を噓と見拔けないざまでインターネットを使つてゐるのは感心できない。
たとへば日本の植民地に先行導入された、「現代かなづかい」のプロトタイプ版とかを見ると宜しからう。
GHQが旧字旧かなの国語を新字新かなにしたと聞いたのですが。
俺はその話はどうも違ふらしいと聞いた。
GHQが日本の精神を破壊するために「和多志」「氣」を強引に「私」「気」に廃止変更したと聞いたのですが。
「和多志」つて何よ? 昔は云々みたいな話を捏造するんなら、「わたし」ぢやなくて「わたくし」を漢字にしろよ。あまりにお粗末で、呆れ果てるばかり。
あと、「氣」を「気」に變へるくらゐで破壞される「日本の精神」とやら、あまりに弱すぎませんかね。
何といふか、こんな間拔けな言説が流布する世の中にあつては、詐欺師は仕事に困らないんだらうなあ、みたいな感想を抱いた。
旧字旧かなで書くのは戦前回帰したがる右翼なのでは?
逆に訊くけど、新字新仮名を使ふ人は左翼なの? 共産主義革命起こしたいの?
歴史的仮名遣は明治政府の創作した「作られた伝統」では?
假にさうだとしても、「昭和占領下政府の創作した『現代仮名遣』」よりよほど增しだと思ふが。
それに、そもそものことを言ふと、明治政府に、歷史的假名遣を無から創作するほどの、國語や假名遣に對する情熱があつたとは、なかなか思ひ難いのだが。有り物を持つて來て採用しただけで、創作したとは言へない。
江戸時代は仮名遣が混乱していたのだから、「歴史的仮名遣」の規範なんてものは明治時代まで無かったのでは。
規範があれば混亂しないとか、混亂してゐる所には規範が存在しないとか、あまりに單純で淺薄で亂暴な物の考へ方ではなからうか。
言葉はコミュニケーションの道具で相手に通じればいいのだし、所詮人間同士の決め事なんだから、どう作り替えたっていいのでは。
言葉についての決まり事を作り替へることの是非をひとまづ措くにしても、一體誰が決まり事を作り替へる權能を持つと言ふのか?
お前らは、誰が作り替へても、あるいはどのやうに作り替へられても、それに唯々諾々と從ふのか?
実践に関する質問
旧漢字や旧仮名遣はどのように調べますか。
假名遣は國語辭典を引いて調べる。goo辞書でも良い。古語が絡むなら古語辭典を倂用しても良いが、假名遣を調べたいだけならそこまでする必要は滅多にない。
漢字については、漢和辭典と國語辭典を適宜倂用する。一つの漢字の「旧字体」を調べるだけなら漢和辭典を引く方が早いかも知れぬが、「同音の漢字による書きかえ」が絡む場合、恐らくは國語辭典の方が捗る。
コンピュータで旧漢字や旧仮名遣の入力は面倒では。
いいや全然。環境さへ調へておけば、入力時の手間は全く變はらへんのよなあ、これが。
面倒なのは寧ろ「旧字旧仮名」を使つてゐることにぶつぶつ文句を言ふ有象無象の方だつたりする。
名賀月はプログラマ的美德であるところの「怠惰」「短氣」「傲慢」を兼ね備へた生き物なので、正字正かなの入力が眞に面倒であつたなら、この書き方を續けてゐないと思ふ。
旧字旧かなの横書きは、右から左に書かないといけないはずでは?
そんな決まり事は存在しない。敗戰前、英數字が澤山混じるやうな文章を書く場合、どのやうに書いてゐたと思つてゐるのか。まあ、その程度のことすら、考へてみたことがそもそもあらへんのやらうなあ、とは思ふけど。
例を擧げておくので、參照されたい。
- 掛谷宗一『對稱變換ニ就テ』 帝國學士院紀事第3卷第3號 pp. 593-603
アラビア語では基本的に右から左に橫書きするが、數字部分だけは左から右に向かふ、といふから、字の書き方によつてはそのあたりどうしやうもないのだが、日本語、といふより漢字を基礎とする書記系の場合、割とどうにでもなつてしまふので、どうとでもしてしまひながら今に至るのである。
旧字旧かなの文章にカタカナの外来語は不釣り合いでは?
いいや全然。昔の人はそれならカステラのことをどう書いてゐたと思つてゐるのか、そのあたりを是非詳しく聞かせて欲しい。
旧かなで書く割に、古文や文語体で書いたり、万葉仮名で書いたりしないのはどうして?
古文については、現代人に古文を書くのはどのみち無理なので。擬古文を書いたり萬葉假名で書いたりする理由は今のところ無い。
文語體については、がつつり文語體で書いたことがあるとは主張せぬにしても、なんちやつて文語體で文章の斷片程度を書いたことならある筈なので、書いたりしない理由を尋ねられても困るといふか何といふか。
といふか、歷史的假名遣と、古文、文語體を一緒くたにしてあれこれ言はれても、ああ此奴は物事の辨別ができぬお馬鹿さんか、と思ふだけなので、できればさういふことはやめた方が良いのではないかと思慮する。
文語体や候文、崩し字などを全部学ばないと、旧かなだけ学んでも意味がないのでは。
目的次第としか言へぬと思ふが。
それより何より、人には意味の無いことをやる自由もある。「意味が無い」ことを殊更に忌避する昨今の風潮、本當にあかんのと違ふか。
格式の感じられないくだけた文章に旧字旧かななんて使ってもいいの?
良いに決まつてゐる。寧ろどうして使うたらあかんと思ふのかが謎。
「現代仮名遣」が作られるよりも前、人々はくだけた文章を書かんかつたとでも? まさかまさかそんな阿呆なことは無いわな。
理由があって旧字旧かなを使うならいいけど、理由もないのに使うのは変では。
君らこそ、大した理由もないのに「常用漢字表」や「現代仮名遣」に從つてゐるのでは?
假名遣を使ふのに理由が要るとか、昔の字體を使ふのに理由が要るとか、君らはどんだけ縛りプレイが好きなんやらう、みたいに思ふ。俺は下らない縛りプレイを強要されるとか眞つ平御免なので。
なぜ旧字より旧かなの方を重視するんですか。
漢字に凝り始めると果てしない泥沼に沈んでしまふので。
もう少し眞面目に答へると、假名遣を枉げることは、日本語文法そのものを枉げてしまひかねない大問題だが、漢字はそこまでではない。
いつの時代の仮名遣が基準?
特定の時代の假名遣を志向するものではなく、時代が移らうとも(あんまり)變はつてゐない部分をひとまづ尊重しておくのが宜しからうといふ考へである。
旧仮名遣を読む時は古語の発音でないといけないの?
古文の時間にテキストを朗讀させられたときのことを思ひ出すがよい。
旧字や旧かなで本を書いたり、インターネットに文章を載せたりしても大丈夫?
今までも、この書き方でウェブに文章を上げたり、同人誌にこの書き方で文章を載せて貰つたりしたが、危害がこの身に及んだことはない。
正字正かなで書く意義に関する質問
どうして今でも旧字や旧かなで現代の言葉を書く人がいるの?
どうしてと言はれても、をる者はをるんやからをるとしか……。
名賀月の個人的な動機を言ふなら、「現代仮名遣」「常用漢字表」に從ふのは無意味な馬鹿馬鹿しいことと思つてゐるから。
新字新かなのどこが気に入らないの?
「現代仮名遣」の規則は一貫性がなく、實にぐだぐだな代物である。そんなものを戰後の混亂のどさくさに紛れて通したのだから、正當性もへつたくれもない。正當性に缺け、中身も出鱈目、そんなものをどうして氣に入ることができようか。
「常用漢字表」は漢字の使用、ひいては語彙そのものをを制限する代物である。そんなものは駄目に決まつてゐる。安直な例を出すなら、「処方せん」とか「改ざん」とか「破たん」とか、實に間拔けな書き方であるが、かういふ間拔けな書き方がメモ書きの範圍に留まらず、活字や看板に堂々と出て來るのは、漢字の使用をある範圍に制限すべしといふ誤つた考へ方が根本となつてゐる。惡い影響は例に出したやうな間拔けな書き方に留まらず、文字や言葉を用ゐて行ふあらゆる營爲に及ぶわけであるから、漢字制限には斷固として反對せざるを得ない。字體の「簡略化」も、漢字制限とセットで行はれたものであるから、一旦白紙に戾すほかあるまい、と考へてゐる。
旧字旧かなで読み書きして何かいい事あるの?
正字體や(歷史的)假名遣で書かれてゐるだけでぶん投げるやうな醜態を晒すよりは餘程良いのでは。
要するに、旧字旧かなを勉強させたいの?
勉強するかせぬかはお前ら自身で決めるが良い。俺がどうのかうの言ふことではない。
読む人なんているの?
知らん。個人サイトの文章は、他人に讀ませるより、自分の備忘にしたくて書いてゐるところがあるし。
旧字旧かなはマニアックな興味を満たす以外、実用として本当に役に立つの?
そもそも、どこまでが實用的で、どこからが趣味的な領域なのか、綺麗に線引きできたりするのかしら。實用が云々と言ひたがる人々、自分の興味のないこと、理解の及ばぬことについて「實用性がない」みたいに言ひがちでは。あれだよ、大學なんかの教育課程に、ともかく目先の「今日明日に會社に入つたら直ぐに役に立つこと(後のことは知らん)」を入れたがる、こいつ大學では勉強せずに遊んでたんだらうなあとしか思へない耄碌經營者の妄言、ああいふのと一緒。
あと、假に「實用的」でなかつたとして、それなら何か、お前らは「實用的」なもの以外は排除して「效率よく」生きてゆくことを命題にしてゐるのかしら? それはまた何とも世智辛い生き方で御座いますな。俺は御免蒙るわ。
旧字旧かなは一般人には難しいから、高等教育を受けたエリートだけに任せれば良いのでは。
一往は「高等教育を受けたエリート」である以上、エリートだけに任せることにしたところで、結局は自ら引き受けるしかないんよなあ。
旧字旧かなを使う時代になんて戻らないんだから、こんな努力は無駄だ。
知らんがな。
俺は俺の書きたいやうに書く。何で俺の書くものについて、根據薄弱の紛ひ物に據つて、あれこれ指圖されにやならんのか。
言葉という「道具」は簡単な方が良いのでは。
不必要なほどに複雜な道具を使ふのは確かに望ましくないが、道具にせよ何にせよ、複雜なものには大抵複雜な理由がある。それを辨へずに簡單にしようとして、今まで出來てゐたことが出來なくなつて、それで良いのかしら?
それに、「現代仮名遣」つて、思はれてゐるほど「簡單」ではない。といふか、「現代仮名遣」を眞に使ひこなすためには、歷史的假名遣を參照しなければならない。假名の使ひ分けの基準を歷史的假名遣に置いてゐる箇所があるので。
一つの音に複数の仮名が当てはまる「歴史的仮名遣」は非効率的なのでは。
本當にさう思ふのなら、助詞の「は」を今度から「わ」と書いたらどないや。
そんな「簡單」なことすら出來んくせに、わけの分からん屁理窟竝べんといて欲しいわ、全く。
日本語から中国の言葉である漢語を追放すれば、漢字も歴史的仮名遣も要らなくなるのでは。
お前が勝手にそれを獨りで實踐するのを止めるつもりは無いけど、俺はそんな暴擧にはとてもではないが附き合へぬ。心底勘辨して欲しい。
さあ、上の文章を、どうぞ漢語を使はずに書いてみて欲しい。俺はそんなことするつもり無いけどな。そもそも漢語を使うて何が惡いのか皆目分からんし。
漢語追放を志向する人々には、次の三つくらゐのことは是非とも訊きたい。
- 漢語を追放した後、どういふ風に事物を數へるつもりか。
- 漢語を追放した後、肉やお茶をどのやうに呼ぶつもりか。
- 漢語を追放した後、馬や梅をどのやうに呼ぶつもりか。
といふか、語彙の純化が可能と思つてゐるあたり、色々拗らせてゐるのでは、としか思へんのよね。アニメ漫畫ヲタ的厨二病よりよほど質惡いと思ふ。
正字正かなのよくある誤解に関する質問
どうして新字新かなを使う人を非難するの?
天照大神、大物主神、釋迦牟尼、大日如來、弘法大師、にゃんどぅー、駄女神アクアに誓つてそんな非難をしたことはない。
「現代仮名遣」は糞、インチキであると既に何度も何度も繰り返し言つてゐるが、「現代仮名遣」を使ふ奴は糞みたいなことを言ふつもりは無い。
そりやまあ、あれこれ屁理窟捏ねてるのを見たときには、賢しらぶつて「現代仮名遣」を積極的に推したがる、物事の分別の出來ん頭の惡い迎合主義者め、くらゐのことは思ふけどさ。
でも、「新字新かなで書く人は例外なく頭がアレ」みたいな事を書いた人を見た事がありますが。
そんなこと言はれても困る。貴君らは「旧字旧仮名で書く人は例外なく頭がアレ」みたいなことを書いた奴と一緒くたにされたいか?
「正漢字正かなづかひが正しい事は自明です。」と書いている人がいるのですが、自分の「正しい」を他人に押し付けているのではありませんか。
さういふ君らだつて、「正漢字正かなづかひは別に正しくもなんともない」みたいな考へ方が「正しい」と、他人に押し附けたいのでは。
これは現代仮名遣いを廃止して歴史的仮名遣に戻すよう政府に働きかける運動なのですか。
運動などした覺えは無い。勝手に好きな書き方で書いてゐるだけ。
言葉は時代によって変わるものなのに、どうして時代の変化を受け入れずに、古い書き方にこだわるの?
俺が使つてゐる言葉は、實に現代的な日本語だと思ふ。「時代の変化を受け入れずに」とか言はれても困る。
「古い書き方」との仰せだが、假名遣はそもそも特定の時代に紐附いた書き方ではないので、「古い書き方」とか言はれても困る。「現代(昭和21年、昭和61年)」に紐附けられた「現代仮名遣」こそ、「古い書き方」への顚落を免れ得ない、どうしやうもない代物だといふことを、ちやんと認識した方がいい。
言葉はコミュニケーションの道具なのに、旧字旧かなで書く人は、相手に読ませる気がないのでは?
さう思ふなら、君らはどうして今これを讀んでゐるの?
言葉は社会の共有財産なので、現在一般的でない「自分勝手な書き方」は「公共の福祉に反する」のでは。
「自分勝手な書き方」つて、寧ろ「新字新かな」にこそ相應しいレッテルだと思ふが。表音主義者どもが戰後混亂期のどさくさに紛れて權力機構を上手いことして押し通しただけの代物に過ぎぬ。
(歷史的)假名遣は俺の創作物ではないので、それを採用したとて「自分勝手な書き方」とは言へぬ。
どうせ学校や会社だと新字新かなで書くんだろ。旧字旧かなで書く覚悟が足りないのでは?
お前らは、私的領域と公的領域を切り分けることすら出來ひん野蠻人なんかな?
歴史的仮名遣を好きだからという理由で使うのは良いが、正しいからという理由で擁護するのはおかしいのでは? 自分の「正しい」を押し付けないで下さい。
さういふお前こそお前の思ふところの「正しい」を押し附けようとしてゐるわけだが、そのことをちやんと自覺してるんかな?
旧字旧かなを面白がって使うのはキャラ作り?
別に面白がつて使つてゐるつもりは無いしなあ。
假に面白がつて使つてゐたとして、他人に責められる道理も無いけどな。
旧字旧かなで書くのはカッコ付け?
そんなことで恰好良く思つて貰へるなら世の中どんなに樂か……。
インターネットで旧字旧かなを使う人は、どうして攻撃的な人ばかりなのですか。私がちょっと馬鹿にしただけで、ものすごく反撃してきます。
他人を莫迦にすることは立派な攻擊なので、お前も十分に攻擊的な人間よなあ。そして、他を攻擊したら反擊されるのは當然と思ふが。他を攻擊するなとは言はんが、攻擊するんなら、反擊される可能性があることくらゐはちやんと把握しとけよ。他を先制攻撃するやうな攻擊的な人間が、己の所業を棚に上げて、反擊したに過ぎぬ他人のことを「攻擊的な人」とか、頭大丈夫?
旧字旧かな信者はどうしていちいち言い返すの? 「触れてはいけない気が狂った人」と余計に思われて界隈の評判を損ねるだけだから、大人の対応をすればいいのに。
「大人の對應」をして欲しいんなら、「大人の對應」をしてくれる「大人」のところに行きなはれ。
私がこうやって旧字旧かなについて正直な意見を言うのは言論の自由なのに、それにいちいち突っかかってくるなんて、言論の自由の侵害ではありませんか。
勘違ひも甚だしい。言論の自由とは、まかり間違つても「自分の言論に反論されない權利」のことではない。
お前が正直な意見を言ふのは確かに自由で、誰にも禁止できないことではある。しかし、お前の意見に反論することは、それこそ反論する奴の自由で、やはり誰にも禁止できない。それが言論の自由といふものである。
戦前教育を受けた世代が旧字旧かなを使うのは良いが、戦後教育世代が旧字旧かなを使うのは見ていて「痛い」。
お前のその感性をどうしようとも思はんけど、そんな幼稚園兒竝みの感想は、チラシの裏にでも書いてをれ。
特定の人向けではない文章で旧字旧かなを使うのは良いが、SNSで特定の人への返事(Twitterのリプライ等)に旧字旧かなを使うのは迷惑では。
迷惑と思ふのは君の勝手だが、しかしそれは單なる個人の感想でしかないので、俺が先回りして配慮する必要があるとは思はぬ。どうしても配慮して欲しいんなら、然るべき態度で、然るべき論據なり見返りなりを呈示した上で、交涉を試みるべきでは? 一方的に何のかんのと文句を言はれても、惡質なクレーマー氣質の奴に絡まれたとしか認識できぬ。
おまけ
わざわざこんな事を歴史的仮名遣で書くなんて、ご苦労なこった。どうせ相手に読ませる気がない独りよがりだろ。
讀ませる氣のない獨り善がりの文章を讀んでゐる汝こそ大儀である樂にして良いぞ。
この文章を現代仮名遣いで書けるんだ。それならすべての文章を現代仮名遣いで書けばいいのに。
お前は「いいのに」と思ふのかもしれんが、俺はさうは思はんしなあ。
他人に意を曲げさせたければ、理で詰めて蒙を啓くのでなければ、對價を示して交涉するとか、いつそ脅すとかすべきと思ふのだが。ただただ「いいのに」みたいに個人の感想を告げられたところで、「知らんがな」としか思はぬ。
相應の金額で買ひ取つて貰ふことが前提の文章であれば、「現代仮名遣」で書いてやつても良いとは思つてゐるので、さういふ用向きがもしあれば御相談下さい。