春が…
離床
旅する人を描く人を恋する人を夢みる人の恋唄
人形の恋
春が…
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九鬼ゑ女
ツカレタァ
吐きだした言葉はたったのひとこと
寝そべった床は
過去という唾液で べとべと
ウソクサイ
嗅ぎまわった昨日よもうさようなら
寝返りを打った床に
後悔を連れたさざ波が ざわざわ
ワラッテェ
歯並びのいい唇が規則正しく動くから
起き上がった床が
みしりと懺悔してあたしは くたくた
サクラマウ
手にしたクレヨンで塗りたくった春
時の音色で満ちた床の上
密やかに恋い焦がれし花びら はらはら
夢だけいざなう床一面
引きちぎられた今日が はらはら
撒き散らかされた明日も はらはら
離床
宮前のん
ずっと入院してて
左足切った時も辛かったけど
こうして帰れて嬉しいよ
だけどほら
前のベッドに居た人
あの人はねえ、ずっと帰れなくて
嫌だよねえ
長く苦しむと
念が残っちゃうんだって
今でもベッドの横で
泣いてるんだよ
長いことありがとね
今まで迷惑かけて
雅彦、ねえ
あんたが泣くことはないでしょ
母さんせっかく帰ってきたのに
ほら奇麗でしょ
新しい浴衣だよ
口紅だって久しぶり
亮子さん地味な服だけど
バタバタと忙しくて
ちー坊は笑ってるねえ
これからは大丈夫
ずうっと居るからね
ここでね
ありがとね
旅する人を描く人を恋する人を夢みる人の恋唄
佐々宝砂
幾重にも入れ子になった
夢の物語のひとつで
旅する人々が歩いてゆくのを見た
真冬の草原に鉄路が走っていて
旅をしない人々は
白茶けた駅でいつまでも待っていた
旅から帰る人を待っていたのか
旅に連れていってくれる汽車を待っていたのか
誰ひとりわかってはいないようだった
どこかで何かがあったのだと
噂だけが流れてきていた
旅する人々は
噂とも鉄路とも無関係に歩いていた
疲れた背に重い荷物が揺れた
その荷物のなかのどれかに
あのひとの気配があった
たぶん硅素系の生物が
ひっそりと音も立てずに生きている
地球ではない惑星の
有機物のひとかけらもない
そんな大地の上に
あのひとがいるような気がしていたのだけれど
目覚めるとまだ夢の続きで
学生のように思われる若い絵描きが
ごちゃごちゃ散らかったアトリエで
旅人たちの姿を描いていて
その油絵がどうしたわけか
腹立たしく思えてしかたなくて
手近にあった黒い液体をひっかけてやった
絵はどろどろ溶けて
絵描きはこちらにくってかかった
その顔にも黒い液体をひっかけた
絵描きはどろどろ溶けていった
すると何をするのと泣く声がきこえて
振り向くと一人の少女がいた
ひどく痩せた少女で
尖ったおとがいが枯れた水仙の葉を思わせた
その少女の瞳にあのひとの姿が一瞬映って
入れ子の物語のなか
目を再び開けばそこは洞窟で
あのひとの気配はもうどこにもない
小さな懐中電灯が
美しい石膏の結晶を照らし出すだけ
複雑に入り組んだ天井からしたしたと滴り
床のくぼみに青く光っている液体は
水ではなく硫酸
洞窟を満たすのは亜硫酸ガス
なのになにごともなく
深呼吸できるのはなぜだろう
硫酸に裸足の足をひたして
なんともないのはなぜだろう
なぜだろう
なぜここにいるのだろう
なぜあのひとを捜し続けるのだろう
ほんとうに
ほんとうにあのひとは存在しているのか
夢の入れ子に疑いは禁物で
疑いの亀裂は洞窟の壁を突き崩し
ガラガラガラと様式化された音が鼓膜をつんざき
閉ざしたまぶたに風圧を感じて
すこし怖くなる
飛んでいるのだと突然理解する
根拠のない昂揚が上昇気流となって
際限なく伸びてゆく手足を浮揚させる
みたび目を開けば
眼下に広がるのは岩と石の乾いた世界
あそこにいるのはたぶん硅素系生物で
たぶんこの大気はヒトの呼吸に適さない
でももう気にしない
疑わない
あのひとの存在を疑ったりなんかしない
疑えば疑うほど
あのひとはきっと遠くなる
だから信じる
信じて捜す
あのひとは存在する
存在する
だれか
夢の入れ子の物語のひとつで
あのひとに出逢ったなら
伝えてほしい
旅する人を描く人を恋する人を夢みる人は
あなたを今日も捜していると
伝えてほしい
夢に亀裂が入り
物語が炸裂し
入れ子が崩壊して
会話が不可能になり
ものとものとの関係性が歪み
宇宙のすべてが喪われたとしても
それでも
旅する人を描く人を恋する人を夢みる人は
あなたをいまも愛していると
伝えてほしい
人形の恋
伊藤透雪
夜更けの暗がり 床の上
散らばっている あなたの赤いトランクス
青いシャツに
ポケットが膨らんだままのジーンズ
テーブルの上には 飲みかけのミネラルウォーター
背中とお尻を向けて
横になっているあなたの姿
が薄明かりにぼんやりと見える
愛おしいと思い寄り添って
やさしく撫でる
上で 幸せかい?と訊く声に
瞬間詰まってしまった私の
心は引き裂かれそうに
苦しくなる
好きだと一度も言ってくれないあなたを
抱きしめて
胸の苦しみは少しだけ和らいだけれど
それも一息のこと
胸の熱さを伝えようにも
遠すぎる あなたの心
私の心はベッドの外に放り出されて
刹那 ただの人形になる
柔らかい
とつぶやく声を遠くで聞きながら
涙も流せずに
愛おしいはずなのに
この苦しさは何故だろう
抱きしめられているはずなのに
心がざわめくのは何故
あなたの荒い息づかいに
どんどん冷めていく私の熱
冷えて
冷え切って
二人なのに寂しい暗がり
あなたと私はいつまでも結ばれない
2011.3.15発行
(C)蘭の会
CGI編集/遠野青嵐・佐々宝砂