レヴュー: 『日本辺境論』



諸元

著者
内田樹
發行
新潮新書 2009年
購入日
平成22年1月6日

日本人論、或は日本論、といふものは、日本人の好むものである。日本人ほど、日本人論の好きな人種はゐない、といふ言葉は、一體幾人によつて語られたことか。

書店で、「辺境」の二文字を見て、國粹主義者の尻尾のやうな評者は、一瞬カッとなつた。皇國日本が辺境とは何ぞ。しかし、まあ、中身も見ないのに怒つても阿呆らしいので、他の本を買ふ序でに手にしてみたら、日本が「辺境」であるのかどうか、といふところはさておき、日本人はかういふ性質のものである、といふ論述そのものについては、腑にスッと落ちた。この本は、是非にも買うておかなければいけない。さう思つて、レジまで持つて行つた。

普段から、評者が嘆いてゐるのは、日本といふ國家が、兔角堂々たる國家目標を遂には持たず、いつもいつもその場凌ぎをしてゐることである。しかし、本書を讀んで、その解答の、少なくとも八割方は得た氣がする。成程、確かに、日本はその始まりからして、少なくとも外向きには、一度たりとも、「普遍的」な國家目標をぶち上げて、見榮を張つたことがない。一度も、である。明治日本の、奇蹟的な躍動は、つまるところ、外に範があり、かつ、外に列強の酷烈があつたが故の、極めて受動的な仕業であつて、その前の日本人とも、その後の日本人とも、本質は變はらない。單に、時宜を得た代物であつた。かう考へると、實にすつきりとする。

筆者は、右翼、左翼のいづれも「受動的」であると斬つて捨ててゐる。なるほどこれは慧眼である。評者も、さういふ日本人の一人であつたらう。そして、多分、この先も。筆者は、日本人の特質について、それが善とも惡とも言はず、ただ「辺境的」であり「受動的」であるとのみ記す。そして、「辺境」たればこその「狡智」を古代から、現代に至るまで、使ひ續けてゐるとも。但し、それが上手く機能することもあれば、裏目に出ることもあるのが、怖いところではある。

筆者は、最後に、日本人の性質を決めてゐる一つとして、日本語を取り上げてゐる。日本語の二重性、即ち、漢字と假名を使ひ分けてゐること、それによつて、外來語を他の言語よりもあつさりと自家藥籠中にしてしまふこと、そこに意義を見出だしてゐる。日本語の、他の特徴、例へば人稱名詞(英語でいふ代名詞)の多さなどにも言及はあるが、其の邊は、評者の讀後感から言へば、附け足しに近い。

一讀して損はない一册であると思ふ。


本文書は平成22年1月7日作成。



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