レヴュー: 『迷走する帝国 - ローマ人の物語XII』



諸元

著者
塩野七生
發行
新潮社 2003年
收得日
平成15年12月15日

本書で扱はれてゐるのは、「三世紀の危機」と稱されたローマ帝國の危機の時代である。

セプティミウス・セウェルス帝崩御後のカラカラ帝の即位から、ローマ帝國の國制を元首制から專制帝制に切り替へたディオクレティアヌス帝が登極する直前までの、皇帝が濫立した期間であり、前卷までと比べても、登場する皇帝は異常に多く、そして、大抵が慘めな最期を遂げてゐる。

カラカラ帝

筆者は最初に、カラカラ帝について、比較的多くの分量を割いてゐる。これは、ある意味當然の歸結であらう。カラカラ帝の政策、施策が、皇帝濫立の「三世紀の危機」の原因の全てではないにしても、少なくとも一部であり、引き金を引いて仕舞つたであらうことは否めないからである。

その中でも、カラカラ帝の發した所謂「アントニヌス勅令」の評價について、多くが割かれてゐる。同勅令については、人道的であると譽める向きもあるやうだが、筆者は、同勅令による財政上、防衞上の問題點を指摘した上で、それ以前のローマの格差社會の「流動性」を、同勅令は却つて損ねて仕舞つた點から、そのやうな評價を排してゐる。その評を以下に引用する。

皇帝カラカラによる「アントニヌス勅令」は、マイナスの意味で画期的な法であったと私は考える。ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。まるで、砦の一つが早くも陥ちた、という感じさえする。しかも、崩壊の端緒をつくったのは敵ではない。ローマ人自身が手を下したのだった。

そして、カラカラ帝に、増税の意圖もなく、單に理想主義的な淺慮から同勅令を發したとの推察を加へた上で、筆者が度々引用し、評者も常々リアリズムの發露として實に優れてゐると思つてゐる、カエサルの次の言葉で綜括してゐる。どんな惡い結果に終つたことでも、それが始められたそもそもの動機は、善意によるものであつた。

その他の、カラカラ帝による諸制度の改定による惡影響についても、筆者は細かく指摘してゐる。その凡てをここで詳らかにするよりは、實際に手に取つて讀んで頂いた方が餘程いいであらうから、ここでは輕く觸れるに留めておく。

「女帝」ユリア・メサとアレクサンデル・セウェルス帝

始めに斷つておくと、ユリア・メサに「女帝」と冠したのは、評者の獨斷である。ユリア・メサは、カラカラ帝の叔母であり、ヘラガバルス帝アレクサンデル・セウェルス帝の祖母であり、兩皇帝を擁立した張本人であり、アレクサンデル帝治下に歿するまで、その執政に大きく影響を與へた人である。ヘラガバルス帝治下では事實上執權を執り、アレクサンデル帝治下では、その右腕となるウルピアヌスを登用して若年の皇帝の側近とし、比較的安定した統治を實現させてゐる。これは、事實上の君主と言つて差し支へないと考へ、敢へて見出しにするに及んで「女帝」と冠したものである。以上、蛇足。

カラカラ帝が弑された後、その首謀者であるマクリヌス帝が登極したが、パルティア戰役を、弱腰な條件で媾和したが爲に、人氣は地に落ちた。これを見たユリア・メサは、一族に帝位を奪還すべく、ヘラガバルス帝を擁してこれを廢したのであつた。登極したヘラガバルス帝は神官として教育されてゐた上、出身地の信仰をローマの信仰の上位に置いたりなど、數々の不始末をするばかりであつた。まともに政務に攜はつたとは思はれない。筆者も、帝位が維持できたのは、祖母ユリア・メサの統治が巧みであつたとの説に贊意を表してゐるし、評者も、これに同意する。

ヘラガバルス帝は、共同皇帝として擁された從弟のアレクサンデル帝を處刑しようとして、逆に弑されて仕舞つた。まさに愚君と言へよう。司馬遷であれば、かかる人物について紀を立てず、ユリア・メサについて立てたに違ひない。漢惠帝について立てずに呂后について立てたのと同じくである。

アレクサンデル帝についての、筆者の評價は、その姿勢を生眞面目で責任感あるものとしつつも、決斷力に缺けるとしてゐる。また、その記述からは、直接さういふ評をしてゐたかは讀み直さないと分らないが、勉強熱心であり、故事にも通じてはゐるが、應用力が弱い若年皇帝の姿が浮かぶのである。彼は、恐らく善人であつたに違ひない。しかし、政治に攜はる者には、「惡」が必要なのである。その「惡」に、彼は缺けてゐたと思はせられる。

もう一つ附け足しておくと、筆者は、アレクサンデル帝とウルピアヌスが、ローマ市民の、皇帝或は元老院に上訴する權利を廢止して仕舞つた件について、「アントニヌス勅令」のもたらした弊害が根本原因としつつ、嚴しい評價を與へてゐる。確かにさうであらうと、評者も思ふ。これによつて、ローマ市民と、ローマ皇帝や元老院との紐帶は確實に一本、それも重要な一本が裁ち切られたのは確かなのであるから。市民と隔絶したローマ帝國は、從來のローマ帝國たり得なかつたであらう。

軍人皇帝時代

ゲルマン問題の對處を誤つてアレクサンデル・セウェルス帝が弑された後、ローマは所謂軍人皇帝の時代に入つて行く。

筆者は、詳述に入る前に、軍人皇帝についての存念を明らかにしてゐる。軍人皇帝は一つの時代の要請の結果であり、軍人皇帝であるといふだけで非難するのは不當であると。そして現代の「シビリアン・コントロール」ありきの思考で歴史を斷ずることなかれ、と。また、そもそも軍人皇帝の時代を招いたのは、自らは軍人皇帝ではなかつたカラカラ帝やアレクサンデル帝がローマを衰退させたことに起因すると、兩帝の治世を詳述した理由を開陳してゐる。

續けて、返す刀で、軍人皇帝にも、その出自に起因するマイナス面は否めず、それが、帝國をいよいよ混迷に導いたと書いてゐる。駄目押しに、シビリアンとしても、ミリタリーとしても超一流のカエサルのやうな人物はゐたし、カエサル程でなくても、それまでのローマ皇帝は、兩方に通じてゐる場合が少なくなく、三世紀に缺けてゐたのは、そのやうな皇帝であつた、としてゐる。

軍人皇帝各々が、實際どうであつたかの評價についてはさておいて、筆者の、施政者に對する要求、即ち、文武に通じてゐる者こそが國家を運營するべきである、といふ考へは、評者も同感するところである。少なくとも、シビリアン・コントロールと稱して、非軍人の政治家が軍事上の決定を行ふのであれば、政治家は一定水準以上の軍事知識を持ち合はせてゐなければ、使ひモノにならない。現代日本の重大缺陷の一つは、軍事知識を持つた政治家が極めて少ないといふことであらう。國會内に、自衞隊將官と防衞戰略についての議論をまともに行へる政治家が、果してどれだけゐるのか、心許ない。まあ、自衞隊將官にしても、戰術は兔も角、戰略レベルの議論の出來る人がどの程度ゐるのか知らないが。

各々の皇帝の事蹟については、本書を各自で讀んで頂きたいと思ふ。

ローマ帝國とキリスト教

評者が、この『ローマ人の物語』を好む理由の一つとして、キリスト教と古代ローマについて、日本人の觀點から取り組んでゐる點が大きい。歐米の史家によるもの、また、その影響下にあると思しき史學者の觀點は、どうしてもキリスト教ありきといふか、キリスト教に教化された後の史觀や哲學を引き摺つてゐる部分が拭ひ切れない。

筆者は本書の最後で、「ローマ帝国とキリスト教」と題した一章を設けて、西暦30年頃にイエスが刑死した後、コンスタンティヌス帝が西暦313年にキリスト教を公認するまで、實に300年掛かつてゐるのは何故かといふ、自らの問ひに對して論考してゐる。その種本として、E. Gibbon “The History of the Decline and Fall of the Roman Empire” (邦譯題『ローマ帝國衰亡史』) と、E. R. Dodds “Pagan and Christian in an Age Anxiety” を用ゐてゐる。

二者の擧げた、キリスト教普及の原因や、それに對する筆者の考へは實際讀んで頂くとしよう。興味深いのは、Gibbonがローマ帝國の衰亡史を上梓した頃は、大英帝國が上り坂の頃であり、Doddsが論考した頃は、その大英帝國が衰亡し瓦解した頃といふことである。Gibbonは己の屬する帝國の衰亡について考へなくて濟んだが、Doddsは、否應なく考へざるを得なかつたに違ひない。

筆者は兩碩學の論考に對し、概ね贊意を表した上で、更に持論を附け加へてゐる。その點のみ、ここで觸れておかうと思ふ。

非常に大雜把に言へば、筆者は、キリスト教側が、ローマ帝國に對して歩み寄つた、と考察してゐる。それは、同じく一神教であり、接觸以來一貫して教義上衝突を續け、最後にはローマ帝國と正面から戰爭をして遂に故地から永久追放されたユダヤ教徒の例を見たが故に、讓れる部分は讓つた、といふものである。そして、本來多神教であつたローマと、一神教たるキリスト教との間に、一種のグレーゾーンを置き、心理的に改宗させる障壁を低い物にした、と推察してゐる。

また、筆者は、當時の多神教を奉じてゐたローマ人が、キリスト教側に對して持つてゐた絶對的な不利は、一神教といふものを遂に理解してゐなかつたことであると指摘してゐる。評者は、このことは、恐らくは現代の日本人にも當てはまるのではないか、と思ふ。評者は、幼兒教育を、キリスト教の影響下で受けたが、それでもどうしても理解出來ないのは、創造者と被造物を嚴かに峻別する點である。概念として、頭でさういふ考へ方があることは理解できる。しかし、信仰の問題として考へるなら、到底さう信じ込むことは不可能である。皇祖天照や須佐之男ですら、伊弉諾が黄泉下りをした後に穢れを祓ひ給ふときに化生したといふ話を拵へるのが日本人である。印度の佛樣が本朝では神樣として現れた (本地垂迹) とは考へられても、根本的に別物の絶對創造者だけは、遂に習合させられてゐない。否、イエスについては、或は八百万の一柱として加へられてゐるのかも知れないが、しかし、それは、クリスチャンの考へるキリストとしてのイエスとは、まるで性質の異なるモノになつてゐる。

筆者は、ローマの神々は人間の魂を救濟するものではなく、生ける人間を助力するに留まつたが故に、絶頂期から一轉して衰退期に入つたローマでは、魂の救濟を説くキリスト教が、遂に勝利を得たと結論してゐる。そして、絶頂期に到るまでの權力者の彫像と、衰退期の權力者の彫像では、まるで違ふと評してゐる。確かにさうなのであらうと思ふ。寫眞でしか見たことがなくても、カエサルやアウグストゥスの像には確固とした個性があり主張があり、それは彼等の矜恃と自信と搖るがぬ信念が、表現した者に傳はつて、さういふ像を刻ませたのであると思ふ。逆に、衰退期の皇帝達の像は、印象が甚だ弱いものが多い。それは、表現者が、彼等をそのやうにしか理解しなかつた、と解するしかない。さうとしか理解させ得なかつたといふことは、矢張、カエサルなどと比べて、何かが壓倒的に足りなかつた、かう斷じるしかないのである。その責任を、本人のみに負はせるのは酷なのかも知れないが。そして、恐らく人類史上ほぼ唯一と言へるかも知れない、「帝國」の「國家體制」を設計し、その實施の地均しまでを行つた天才であるカエサルや、その後を受けて、ほぼその設計通りに、しかし、あくまで自分の分際に合ふ形で、「帝國」を築き上げたアウグストゥスと、凋落する一方のローマをなんとかするので手一杯で、餘裕など微塵もなかつたであらう諸帝を比べるのは、もつと酷なのかも知れないが。

評者が思ふに、日本人にとつて、參考とするべきは、恐らくローマの辿つた道であり、大英帝國の辿つた道である。彼等がどのやうに、小國より國を興して「帝國」を爲したか、そして、それを如何なる形で失つたかを知ることは、國家を運營する上で參考にならない筈がない。そして、日本は、露西亞と、支那といふ、「帝國」にならうとしてゐる國を、隣國として抱へてゐるのである。彼等の野心から日本を守り拔く爲にも、ローマや英國の歴史を紐解くことは役に立つこと間違ひあるまい。


以上、平成20年7月24日記す。

平成21年4月18日、修正。



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