曼 - 漢字私註
説文解字
引也。从又冒聲。無販切。
- 三・又部
説文解字注
引也。『魯頌』毛傳曰、曼、長也。从又冒聲。此以雙聲爲聲也。無販切。十四部。
康煕字典
- 部・劃數
- 曰部・七劃
『廣韻』『集韻』『韻會』𠀤無販切、音萬。『說文』作曼。引也。从又冒聲。『玉篇』長也。『詩・魯頌』孔曼且碩。《傳》曼、長也。《箋》脩也、廣也。
又『前漢・司馬相如傳』鄭女曼姬。《註》曼者、言其色理曼澤也。『楚辭・天問』平脅曼膚。《註》曼、輕細也。
又『前漢・司馬遷傳』曼辭以自解。《註》如淳曰、曼、美也。
又『莊子・馬蹄篇』馬知介倪闉扼鷙曼詭銜竊轡。《註》曼、突也、言曲頸於扼以抵突也。
又『揚子・法言』周之人多行、秦之人多病。行有之也、病曼之也。《註》曼、無也。
又姓。『前漢・五行志』曼滿。《註》鄭大夫。
又『廣韻』母官切『集韻』『韻會』謨官切、𠀤音瞞。『博雅』曼曼、長也。『屈原・離騷』路曼曼其修遠兮。《註》曼、或作漫。
又『集韻』『韻會』𠀤莫半切、音幔。曼衍、無極也。『莊子・寓言篇』因以曼衍、所以窮年。
又『集韻』母伴切、音滿。曼漶、不分別貌。
又與蠻同。『公羊傳・昭十六年』楚子誘戎曼子殺之。『釋文』曼音蠻。二傳作戎蠻。
又『正韻』微夫切、音無。『揚子』聖人曼云。【註】曼音無。○按『法言・重黎篇』曼訓無、不音無。
又『韻補』叶無沿切。『楚辭・大招』嫮目宜笑、蛾眉曼只。容則秀雅、稚朱顏只。魂兮歸來、靜以安只。顏、倪堅切。安、於虔切。
- 部・劃數
- 日部・九劃
『正字通』俗曼字。○按曼从曰、載日部、非是。
音訓
- 音
- (1) バン(漢) マン〈『廣韻・去聲・願・万』無販切〉[màn/wàn]{maan6}
- (2) マン(呉) バン(漢) 〈『集韻』莫半切、音幔、去聲換韻〉[màn]{maan6}
- (3) マン バン 〈『集韻』母伴切、上聲緩韻〉{mun5}
- (4) マン バン 〈『廣韻・上平聲・桓・瞞』母官切〉{maan4}
- 訓
- ながい。ひく。
藤堂は、音(1)、(2)の二音を擧げるが、音による使ひ分けは示さない。また音(1)の呉音をモンとする。
KO字源は上記四音を擧げ、使い分けを示す。『康煕字典』と一致する用義を下に擧げる。
- (1) 廣い。長い。引く。美しい。突く。無い。
- (2) 曼衍は極まり無いこと。
- (3) 曼漶は分別なきさま。
- (4) 曼曼は遠きさま。
漢語資料では、官話發音をmànとするが、又音としてwànを示すものもある。粤語の音(3)(4)については、漢字多功能字庫に據る。
解字
白川
冒と又の會意。冒は面衣を著け、目が下に現れてゐる形。又は手。面衣を引いて眉目の美しさが顯れる意。
『楚辭・招魂』娥眉曼睩
とは、婦人の美しい目元をいふ。
『説文解字』に引くなり
とし、字を冒聲とするが、會意とすべし。
『楚辭・九章・哀郢』曼余目以流觀兮
(余が目を曼かにして、以て流觀す)、また『詩・魯頌・閟宮』孔曼且碩
(孔だ曼かにして且つ碩いなり」」のやうに用ゐる。
藤堂
冃(覆ひ)と目と又(手)の會意で、長い垂れ幕を目の上に被せて垂らすことを示す。
落合
【補註】以下、漢字多功能字庫が曼の甲骨文とする字についての落合の解説。
會意。目を手で持つ形(𰆸に作る)。爪に從ふ形や手を二つにした字形、面に從ふ字形もある。甲骨文には原義での用例がなく、どのやうな動作を表したものかは不明。
冃を加へると曼の形になり、その初文とする説もある。
甲骨文での用義は次のとほり。
- 地名またはその長。殷金文の圖象記號にも見える。《合集》1031
貞、勿呼以𰆸人。
- 神名。《合集》12859
丁丑卜、求于𰆸雨。
漢字多功能字庫
甲骨文は二又と目に從ひ、兩手で目を開く、あるいは兩手で眉目の上を覆つて遠い所を視ることを表すと解く。現代人もまたこのやうな習慣を有する。『楚辭・哀郢』曼余目以流觀
(郭沫若)。本義は目を開いて遠くを望むこと。引伸して長遠(長きに亙る、長い)、美麗の意。甲骨文の目をあるいは面に換へる。面は聲符。金文については、曼龔父盨は冃聲を加へる。冃は帽子の形に象る。季旭昇は冒、帽と曼の聲は比較的遠く、故に『説文解字』が曼は冒聲に從ふとするのは信賴できるとは限らないとする。季旭昇はまた、曼龔父盨の從ふ所は冕の象形初文で、曼の聲符であるとする。
【補註】漢字多功能字庫が曼の甲骨文とする字を、落合は亡失字とするが、曼の初文とする説があることにも觸れてゐる。
甲骨文では地名、人名に用ゐる。
金文では國族名に用ゐる。曼龔父盨曼龔父乍(作)寶盨。
戰國竹簡では通假して蔑となす。《清華簡一・祭公》簡6茲迪襲學于文武之曼德
。曼を今本『祭公』は蔑に作る。沈培は「曼德」は二通りに解釋可能とする。一つは讀んで勉となし、「勉德」つまり勤勉の德のこと。もう一つは讀んで迈(邁)となし、「迈德」つまり日々進步する德のこと。
このほか、一説に戰國竹簡ではまた曼を通假して晩となすとする。《郭店簡・老子乙》簡12大器曼(晚)成
。しかし注意を拂つて解讀すると、「大器曼成」の曼は通假して慢となすべく、輕慢、輕忽、あるいは不重視と解くべきともいふ(參: 陳雄根)。「大方無隅」、「大音希聲」、「大象無形」などの言葉と同樣に事理の大に基づき、しかしその反義を立てる。故に「大器曼(慢)成」は實は大器が成就の有無に拘泥せず、甚だしくは成就などどうでもよいことを指す。王弼がその句を「大器晩成」に改めたが、老子とは前後の文意が一致しない。(補註: 金谷治は「大器晩成」について「晩成」といふことばは、文字どほりには「できあがるのがおそい」であるが、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるといふことであらう
(講談社學術文庫『老子』)と釋してゐる。)
《上博竹書六・用曰》簡17曼曼柬柬
は「慢慢簡簡」、簡慢、つまり輕忽、怠慢なること。
屬性
- 曼
- U+66FC
- JIS: 1-50-56
- 㬅
- U+3B05
關聯字
曼に從ふ字を漢字私註部別一覽・又部・曼枝に蒐める。